趣味の寺社関係、日本の神様や仏様関係に関するブログです。本業は名古屋市内の呉服店です。

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加藤大幾

Author:加藤大幾
名古屋市西区の着物屋店主です。こちらのブログ(青)は趣味・興味があることを中心に書いて行こうと思います。

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◆岩手の蘇民祭り

先日、遠い岩手県と宮城県から、お坊様二人がご来店されました。岩手の方のお坊様のいる寺には、古くから切支丹に関する歴史が遺っており、その関係か切支丹の研究をしているそうです。
 
 
名古屋に来たのは、名古屋市中区にある切支丹寺の栄国寺へ拝観目的だったそうです。栄国寺にて紅葉屋のことを聞き、急遽予定を変更して紅葉屋へご来店となったと聞きました。当店には切支丹茶室があります。

瑠須庵


数日後、ご来店された岩手のお坊様のお寺のHPがあったので見てみると、興味深いお祭りが載っていました。蘇民祭りです。


岩手県に遺る蘇民祭りについて調べた所、奥州市商工観光部商業観光課のサイトに詳しい説明がありました。それによるとこうありました。蘇民祭りの由来です。



蘇民将来の最も古い文献は、和銅6年(713)あるいは延長2年(924)に官符により上げられた『備後風土記(びんごふどき)』の逸文の中にある。

疫隈(えのくま)の社。昔、北海に居られた武塔の神が、南海の神の女子をよばいにお出かけになられたところ日が暮れた。かしこに蘇民將来と巨丹(こたん)將来の2人在って、兄の蘇民將来は貧窮で、弟の巨丹將来は富饒で、家も倉も百ばかりあった。ここに武塔の神は宿を借りようとしたが、巨丹は貸さず、蘇民に宿を求めた。蘇民は粟の柄を坐とし、粟の飯などでもてなした。
 
 それから年を経て武塔の神は八柱の子をひきい還って来て申されるには、「我れ、将来の為に報いん、汝の子孫その家にありや」と。蘇民將来答えて「われに女子とこの婦がいる」と。すると武塔の神が申されるには「茅の輪を腰の上に着けよ」と。

その夜蘇民と女子2人とを置いて、皆悉に許呂志保呂保志てき(読解困難)、それから武塔の神が申されるには「吾、じつは速須佐能雄(すさのを)の神なり。後の世に疫気あらば、汝、蘇民將来の子孫といって茅の輪を腰につけよ。詔のまま著けさせれば即ち家なる人は疫気から免れるであろう」と申された、と伝えられています。



岩手に遺る蘇民祭りは、やはり蘇民将来、牛頭天王様のお祭りでした。上の由来の読解困難部分ですが、これはおそらく牛頭天王様を貧乏ながらも、やれる範囲でもてなした蘇民一家以外は、牛頭天王様と八王子の怒りを買い、全滅したというような内容だったと思います。
 
 
速須佐能雄神は牛頭天王様と同体とされた荒ぶる神様です。東北の岩手にまで愛知県津島神社の信仰が伝わっていたのは知りませんでした。


牛頭天王様は陰陽道由来の厄神の王様です。神道では速須佐能雄神と習合したり、密教では薬師如来と同体とされ祀られました。明治時代の神仏分離令で、天皇陛下と同じ発音をする「天王」という名前が無礼であるとされ、外されてしまいました。
 
 
津島神社、八坂神社、須賀神社などはかつて牛頭天王様も祀っていました。熊野神社にもいらっしゃったと思います。牛頭天王様の御利益は病気封じだったと思います。蘇民一家が難を逃れた茅の輪は、全国あちこちの神社で、元々牛頭天王様を祀っていない神社などにも、神事として残っています。そういえば私の住む地域の氏神様、白山神社でも茅の輪神事は毎年行っています。

蘇民祭 
※画像は奥州市商工観光部商業観光課さんのサイトより


牛頭天王様のことが少しずつ分かってくるたび、こんなにも全国あちこちで信仰が拡がっていたのかと驚きます。今も昔も、人々の一番厄介なことは病気ですね。全国に牛頭天王様の信仰が拡がっているのはそれだけ病気の悩みが深刻だったということでしょう。








 
 

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